2009年10月31日土曜日

Cusco again

Machupiccuから戻ってきてもとにかくぐったり。高山のせいなのか歳のせいなのかよくわからないが、なかなか疲れが抜けない。予定では戻ってきた次の日にはPunoに向けて出発しようと思っていたのだが、なんだかんかだ気分が乗らないのでCusco滞在を数日延ばすことに。

まぁ、ダラダラとしながらもできることをやる。とりあえず動画の編集、写真のアップロードなど完全にインドアではあるが部屋にこもってせっせと作業。そしてたまに外出。ヨシさんもチャリでのMachupicchu周遊を終えCuscoに戻ってきていたので一緒に夕食でもと誘いに行ってみる。すると11年前にMachupicchuを訪れた際にガイドとして同行してくれた松尾さんという方にちょうど連絡が取れ、今夜ご飯を食べに行くことになったのでよかったらご一緒にということだったので、関係ない自分も同行することに。

7時にカテドラル前にて待ち合わせ。ヨシさんは11年ぶりの再開なのでお互いわかるかななんて心配していたのだが会ってみるとなんてことはない、すぐにお互いだとわかり、すぐさま松尾さんの行きつけのカレー屋へ。この松尾さん、なんでもヨシさんに遺跡の面白さを教えてくれたいわば師匠らしく、話がとにかく面白い。カレーとワインをたらふくご馳走になった後、店を出ると今度は「家で飲むか?」と自宅にまで招待してもらい、そこでは芋焼酎に日本の本と至れり尽くせり。遅くまで談笑し、結局、松尾さん宅に宿泊までさせてもらうことに。しかも翌朝の朝食にはソバが用意されているではないか…

いやー、リマのニシザワさんといい、今回の松尾さんといい…なんていい人たちなんでしょ。

と、そんなこんなでCusco滞在が長引いていくのだった…

2009年10月29日木曜日

Machupicchu 3rd~last day

前夜に起きた出来事を皆に話すと、「そいつやっぱりホモやったんちゃうか」との返答。うーん、ホントにそうだったのだろうか…

それはさておき三日目はMachupicchu手前の街、Aguas Calientesまで線路の上を歩く。まさに気分はStand by me。と最初の方は良かったのだが、線路ってでかい石がゴロゴロしててとにかく歩きにくい。てなことでだんだんと疲れてくると、そのデコボコが非常に億劫になってくる。昨日のインカ道の方がまだよかった。街に辿り着く頃には疲労困憊。ガイドがこれからPutucusi山へ行きたい人と尋ねても、誰も手を挙げる者はいなかった。部屋に入るなり皆、眠りにつくのだった…


夕食後に少し街を徘徊。Machupicchu手前の街ということもあり、とにかく観光客、お土産屋さんだらけ。しかも物価が異常に高い。明日も早いことだし、早めに就寝といきたいとこだったが、テレビでちょうど映画“12 monkeys”をやっていてついつい最後まで見てしまい、寝るのが少し遅くなってしまった。

最終日、早朝4時に宿を出発。遺跡まで上り詰めること35分(割と早い方)。入り口にはすでに沢山の人間が並んでいた。そして待つこと1時間。やっと係の人が登場。Winapicchu山の整理券をもらい、そしてやっと入場開始。待ちに待ったMachupicchuをこの目で見る時がきた。階段を駆け上りやや上からMachupicchuを見下ろす。ちょうど朝日が山間から差し込むMachupicchuは自分が思っていた以上に神秘的に見えた。ガイドの説明とともに遺跡を歩く。人が多いのはしょうがないのだが、よくよく遺跡を見てみるとここまで手を加えていいのかと思うほどの復元ぶりには少しがっがり。あくまで自分の意見だが、Machupicchuはマクロ的視点から見た方が神秘に満ちていると思う。そしてCathal, Simonと共にWinapicchuへ向かう。朝一で登ることもできるのだが、それだと雲が多くてMachupicchuが見れないことが多いらしく(しかし、その雲隙間から垣間見えるMachupicchuも神秘的だと思うのだが)、ガイドの言う通りに従ってその次の時間帯での登頂。一番上から見渡すMachupicchuもこれまた素晴らしい。しかし余韻に浸る間もなく係の人から「5分経ったらすぐ移動して」との指示が。人が多いため混雑しているからである。まるで休日の高尾山状態。渋々すぐに下山。

帰りもバス代ケチって歩いて街まで戻る。昔はここにグッバイ・ボーイたる子供がいたらしいのだが、ヨシさん曰く子供が学校にいかなくなるので政府が禁止したとのこと。代わりに自分がそれとなくやってみる。「バイバーイ」と山を下るバスに向かって叫ぶ…そんな野暮なことはしない。とにかくバスと競争だ!ホントのグッバイ・ボーイは林の中を駆け下りていたらしいのだが、それらしい道を見て自分には不可能だと痛感し、とにかく階段を駆け下りる。しかし、よく30越えてこんなことやるよなって自分でも笑えてくる。そんなこともあり街にたどり着いたときにはヘロヘロ状態。その日の夜には帰路につくため、休む宿など与えられない。ということで電車の時間まで広場横の路上でホームレスのごとく眠りにつくのであった。

夕方6時の電車に乗り込む。高い割に座りごこちの悪い椅子。そして、いろいろあったこの四日間を思い起こし、大変疲れたが非常に満足のいくツアーであったことは間違いない。

2009年10月27日火曜日

Machupicchu 1st~2nd day


早朝6時、同じ部屋に宿泊するSimonと宿を出発。バスに乗り込むとPSFメンバーとその他のツアー参加者達は既にバスに乗り込んでいた。

まず、初日はMt.
Abra MalagaからSanta Mariaまでマウンテンバイクで一気に駆け下りる。途中までは舗装された道路だったのだが、最後の約2時間は未舗装道路。バイクで走っても嫌な道は、自転車で走っても嫌なのは変わらない。ガタガタ道に手の感覚は無くなってくるわ、尻は痛いわと未舗装道路はとにかく勘弁してほしい。とはいえ、一人で走るのとは違ってみんなでワイワイと走るのは楽しいもんだ。



Santa Mariaに辿り着くと今度はラフティングが待っていた。映像で見たりしたことあったが、実際にやるのは初めてのこと。そう初体験なのだ。そして、その感想はというと…面白い!想像以上に楽しめた!しかも二回も川に落ちた!二回目に落ちた時はなかなか水面に上がれずやや焦ったが、自分以上にインストラクターはもっと焦っていた(笑)。そんなこんなで初日はあっという間に終了。そう、今回のツアー参加者の中にたまたま日本人カップルも参加していた。シゲオさんとイズミさん。夜はみんな寝静まりかえったにもかかわらず三人で談笑。

二日目。シゲオさんとイズミさん、あとDave一同は二泊三日のツアーだったのでここで別れる。そして我々はInka Trail(インカ道)を経てSanta Teresaを目指す。自然を眺めながらのトレッキング。聖なる川と呼ばれるウルバンバ川を望みながらひたすら渓谷を歩く。僕らが歩いたのはインカ道のほんの一部で、実際はもっともっと長く、遡ることインカ期にはエクアドルからチリまでおよそ四万㎞も続いたとてつもない道なのである。そしてその日の疲れを癒すべく、街の手前で温泉入浴。かなり温い温泉だったが、それはさておいて、気分は上々。そしてこの頃になると、他のツアーメンバーとも心が打ち解け合ってきて、宿に着くなり酒盛り開始。明日の出発はややゆっくりとしているということで、食後はみんなでディスコテカ!だったのだが、自分は高地のせいかやや疲れていたので、そのままベッドにバタンキュー(というか他のメンバーはかなり若かった…)。そしてその夜、ある問題が起きるのだった…


同室のSimonが部屋に戻ってきた時に少し目が覚め時計を見ると10時半くらいだったろうか。それから再び深い眠りについた。それからどれくらい経っただろうか、誰かが自分の右脇腹を撫でているのに気づき、ふと目が覚めた。真っ暗なので誰なのかわからず、しかも寝ぼけていたのでなにが何だかわからずSimonかと思って、横のベッドを見ると彼はぐっすり寝ている。「何やってんだ」と声をかけると何も言わずに出て行ってしまった。数分、ボーっと考えて事の重大さに気づく。すかさず自分のバッグの中身を調べるが特に物は取られていない。Simonを何度も呼び覚まそうとするが名前を何度呼んでもこの図体のでかいデンマーク人、全く反応しない。とりあえず、追っかけてみようと表に出てみると、酔っぱらいどもが表で今夜泊まりたいのどうのこうのもめている。こいつ等かと思ったが、部屋にいた男はストライプ模様の洋服を着ていたので、服を見てみるとどうやら違うみたい。ツアーガイドが起きていたので事情を説明すると「そいつはホモだな」と笑いながら言う。しかもかなり酔っている。駄目だ、こいつに今話しても埒が明かない。とりあえず物取りではなかったようだし、部屋に戻り再び眠りにつくのだった。

2009年10月26日月曜日

Cusco

世界遺産の街Cusco。Machupicchuを目指す人々もこの街を起点にしているため、多くの観光客で賑わっている街である。オレンジ色の屋根の家が建ち並び、坂の上から見る景色はCubaのSanchiago de Cubaを思い出させる。坂が多い上に標高3300mときたもんだから、すぐに息が上がってしまう。

初日は丸一日かけてバイクの整備。折れたキャリアーの溶接、チェーンの弛み、エンジン等のチェックにクリーニング…などとやることは目白押し。特に再び折れたキャリアーはこれでもかとパイプの中に鉄の心棒を入れての溶接。今度こそは大丈夫であろう…。

ここクスコでの生活はとにかく知り合いに出会う。チャリダーのヨシさん然り、そして街を歩けばPSF連中に出くわす。週末にはPSFで知り合ったDaveの誕生日パーティがここで開かれるということで、Machupicchuはそれまでお預けだ。

さて、どうやってMachupicchuに行くか考える。方法は簡単にいえば2通り。自力で行くか、ツアーに参加するか。いろいろと情報を仕入れた上、同じ宿のドイツ人カップルが教えてくれたツアーを申し込むことに。三泊四日、宿、食事、入場料、電車代全て込みで、しかもマウンテンバイク、ラフティング、インカトレイルまで付いて140ドル(学割なしの場合160ドル)という、なんともお得なツアー。結局、ボランティア連中を誘いかなりの大人数で参加することになった。

南米で一番楽しみにしていたMachupiccu。とにかく楽しみでしょうがない。

2009年10月25日日曜日

Arequipa~Cusco

Colca Canyonから戻ってきた後日、次に目指すはCusco。そこまで行けばマチュピチュはもうすぐ目の前。


話は少し遡るが、Colca Canyon出発前に壊れたキャリアーを修理するために、宿のおばちゃんに溶接してもらえるところを聞き、その場所へ向かう。そこには数件町工場が立ち並び、日本でいう下町の雰囲気。1軒目を尋ねると無下に断られ、そして2軒目尋ねたところすんなりOKをもらう。かなりベテランらしきおじさん(おじいさん?)が一人で営んでいる工場。バイクを工場に入れ、あれこれと要望を伝える。そこにないものは代用品としておじさんがお手製で切り盛りしている。そしていざ溶接開始。おじさんは防護グラスもせずにバチバチ始めてしまった。さすが職人技なんて感心して、おじさんをよく見るとなんてことはない、火花が飛び散る際は目をつぶっているではないか!逆にちょっと心配になってきた…約10分後、無事作業は終了。ちゃんと折れた部分を繋ぎ合わせてくれているのでひとまず安心。


さて、Cuscoまでどう行こうか悩む。舗装道路を選択すれば遠回りになり、CuscoからPunoに向かう際に再び通るルート。未舗装道路を選択すれば距離は短くなる上にPunoを目指す際に同じ道を走らなくて済む。極力同じ道は避けたい、なるべく違った風景を見ながら走りたいということで後者を選択。そう、この選択が後々後悔することをこの時点では知る由もない…


朝9時にArequipaを出発。先日行ったChivay手前からCusco方面に道が分かれ、そこからは延々と続くダートロード。Chivay手前でも所々未舗装道路で、舗装している道路でもモグラたたきゲーム並みに至る所に穴があきまくりのボコボコ道。これは酷いと思っていた矢先、Cusco方面へ入ってすぐにキャリアーが再び折れてしまう。ここから地獄の始まりであった…先に進めば進むほど道は悪くなる一方。なんとか荷物を後ろでくくり付けてはいるものの、悪路のためすぐにずれてしまい、そのために走行中のバランスは最悪。おまけに砂利道ときたもんだから、バランスを崩してしまい、ことあるたびに転倒を繰り返す…さらに追い打ちをかけるように、バカ犬どもが所々で追っかけてくる始末。坂道ではスピードが出ずにとにかく焦る。途中、何度叫んだことだろうか…もうそろそろ舗装道路に出ても良い頃と思っても、先に見えるのは延々と続く山、山、山…夕暮れが近づいてくるとともに、今度は雲行きが怪しくなってきた。すると思った通り数分後には雨が降り出す。さらに酷いことに、しばらくするとその雨が今度はヒョウに…手がかじかみ感覚が無くなってくる…そしてその後は土砂降りが続く…


Yauriという小さな町に入ったところでこれ以上の走行は無理だと判断し、この日はここで宿をとることにする。町の人に宿の場所を尋ね、その場所に向かう。宿に到着し値段を尋ねやや高いと思いつつももう選択の余地なし。とにかくホットシャワー出てくれればそれで充分…部屋に荷物を運び込み、早速バスルームへ。蛇口をひねり熱すぎるくらいのお湯にひとまず感動。かじかんだ手をお湯にかざし指が動くまでしばらくその体勢をキープ。かじかんだ手は回復したのだが、左手は長時間ハンドルと強く握っていたせいで、感覚が麻痺しフォークも握れないほど握力が全くない状態…シャワーを済ませ、一息ついたところで地図を広げ現在地を確認。まだ半分くらいしか来ていないではないか…


後日、泥だらけ&未だ乾かぬジーンズに再び足を通し旅を再開する。宿のおじさんが言うにはここからCuscoまで約5時間。しかし、キャリアーが壊れたこの状態ではそれ以上かかると判断し、朝9時には出発。昨日同様の悪路。ただ雨は降っていないため少しは気分が晴れる。中々辿り着けぬ舗装道路を夢見て、ひたすらダートロードを駆け抜ける。そして約4時間走ったところで舗装道路に突入…途中にほんの数百mだけ舗装道路地帯があり、一瞬の快楽を味わったところで再び苦汁を飲まされるということがあったので、今度はそうでないでほしいと願う…


続いている…


確かに舗装道路は続いているではないか!!今までたかだか舗装道路を走っただけでここまで感動したことがあっただろうか。その後は軽快に飛ばし、そして無事Cuscoに到着。


泥だらけのジーンズ、靴、そしてバイクを眺め、もう二度とダートロードは選ばないと心に誓うのであった…



2009年10月24日土曜日

Colca Canyon

ヨシさんもArequipaに到着したところで、一緒にColca Canyonツアーを申し込む。このツアーのメインはなんといってもコンドル見学。とはいえ、如何せん野生ため確実に見れるというわけではなく、見れるか見れないかは時の運。まぁ、日頃の行いが良ければ見れるといったところだろうか。そして夕食後、ヨシさんと宿にて安ワインを飲みながら色々なことを語りあったのであった…


翌朝9時頃に宿を出発。送迎のバスに乗り込むと「日本人ですか?」と隣から声が聞こえてきた。たまたま同じツアーに参加していた、ヨシミさん(男)。顔が濃いのでてっきり日本語のうまい現地の人間かと思ってしまったが、正真正銘の日本人。しかもヨシさんと年齢が同じな上に大学まで一緒という、なんとも不思議な巡り合わせ。前日ヨシさんと語り合った際に「人間、出会う人とは出会うようになってるんですよね」なんて話をしてたところでこの出会いときたもんだから、運命というものはよくできていると感心してしまう。


標高4800mの峠を越え、宿泊地のChivayに到着。ここでは温泉があるということで、水着を持って早速温泉地へ。見た目はプールなのだが入ってみると確かに温泉。外の看板には39°って表示されていたが実際のところかなりぬるい…でも、久々の温泉ということもありかなり癒されました。夕食はツアー会社が斡旋するレストランへ。中へ入ると見るからに高そうな雰囲気。メニューを見るとやはり高い…しかし、フォルクローレの演奏や民族ダンスが見れるということで良しとしとこう。しかし、こういう観光ツアーはあまり参加することがないので、毎度のごとく非常に違和感を感じる…明日は朝5時起床ということもあり、早めの就寝(というかやることないので…)。


「ショウさん、もうそろそろ朝食の準備ができますよ」


とヨシさんに起こしてもらう。時計を見ると既に5時半。出発は6時。ちょっとちょっと、もうちょっと早めに起こして下さいよ(自分で起きれないくせに)なんて思いつつ、あわてて準備していると


「あの、朝食の準備まだなんですよ…」


と再びヨシさん。あ、そういうことですか。ヨシさん、気つかって遅めに起こしてくれたのですね…しかしここでは時間にルーズなのは日常茶飯事。これを「ペルーニアン・タイム(ペルー時間)」と僕らは呼ぶ。出発20分前にやっと準備が整い、朝食開始。用意されていたのはパンにジャムとマーガリン、それとお茶…この準備にどれだけの時間を費やしたのだろう…


6時を少し過ぎたところでお迎えのバス登場。コンドルが一番見れる時間帯が8時から10時ということなので、その時間を狙っての出発。と、出発して間もなく街の広場にて車が停車。ここでは15分ほどの買い物タイム。広場では民芸品を売る人々、そして音楽に合わせて踊る少女達。時計は「6時30分」を表示している。こんな朝っぱらからよくやるわと感心しつつも、あまりの観光地的な雰囲気にややひいてしまう。Colca Canyonに到着するまでにいくつかのビューポイントで降ろされ写真撮影。そして僕らが降りるところには必ずいる民芸品を売りさばく現地民。彼らの商売根性にはホントに感心してしまう…


Colca Canyonに到着したのは8時15分くらい。到着するやいなや飛んでいましたコンドルが!!やはり日頃の行いが良いからだろう。なんて思っていると数分後にはパタリといなくなってしまう。簡単に見れるもんなんだと余裕ぶちかましすぎて写真撮ってないし…それから待つこと30分。なかなか姿を現してくれないコンドル。「場所変えようか」とトモミさんが言うので、下側にあるビューポイントへ移動。すると再びコンドル登場。あらあら、先ほどいた場所にメチャメチャ急接近…でも、こっちにも近づいてくるので、今度こそはと写真を撮りまくる。が、如何せん望遠レンズを持ってないので写真越しではコンドルなのかタカなのかよくわからない…とはいえ、肉眼で見るコンドルはとにかくでかい!そして顔がグロい…約30分周期で現れるコンドル。思った以上に見ることができ、大満足でColca Canyonを後にするのであった。


Arequipaに戻り、夕食は明日には日本に帰ってしまうヨシミさんのリクエストでArequpa料理を食べに行くことに。赤い唐辛子に炒めた挽肉が詰まった“ロコト・レジェーノ”に海老のスープ“チュパ・デ・カマローネス”を食しこれまた大満足。その後、宿にて安ワインを飲みながらのご歓談。


Arequipaの街自体には非常にがっかりしたが、コンドルに食べ物、そして新たな人との出会いにたいへん満足のいく時間を送ることができたのであった。


2009年10月23日金曜日

Arequipa

Piscoにいる際にArequipaという街に行こうか行くまいか非常に悩んだ。理由は簡単。ナスカから丁度道が二手に分かれ、一方の道がCuscoに通じ、そしてもう一方がArequipaに通じていて、Arequipaに行ってしまうとCuscoからPunoに経由するのが面倒くさくなるからである。しかし、みんなArequipaは好きな街だとか言うので、結局行くことにした。


NazcaからArequipaまで道のり約560㎞。海沿いをひたすら突っ走った後、Camanaという街からArequipaまで山道をひたすら登り詰める。海沿いの道は景色は良いのだが、如何せん潮風が強く、そして寒いので結構嫌になる。バスで行くと9時間の道のり。朝9時にNazcaを出発Arequipaに到着したのは夜の8時だったので、毎度のごとく街に入って迷うことを想定すると予定通りと言えば予定通りの到着。想定外のことといえば、バイクの後ろに積んであるバックパックが異常に後ろにずれるなぁと思っていたら、それもそのはずキャリアーが見事にボキッと折れてしまっていたのだ。まぁ、今まで相当な悪路を走ってきて、それをたった二本のパイプで支えてきたと考えると折れてしまってもしょうがないのか。とにかくArequipaまでもってくれたのでよかった。


後日ぶらりと街を歩く。思った以上に観光客だらけで、しかも街の雰囲気がキトそっくりということもあり非常にがっかり。中央の広場で一人たたずんでいると、ピスコで一緒だったLuice&Tamura夫妻とばったり出会う。他にSebastian&Nathalieカップルもここにいるということで、夜はみんなでメキシカン料理を食べに行くことに。


そう、明後日にはチャリダーヨシさんが必殺バスワープを使ってここに到着するとのことなので、五度目の再会をここArequipaで果たすことになるのであーる。


2009年10月18日日曜日

NAZCA LINES

1939年アメリカの考古学者Paul Kosokによって発見されたナスカの地上絵。そして彼の助手であったMaria Reicheによって地上絵の解明作業が行われてきた。しかし未だに多くの謎に包まれたナスカの地上絵。

一体誰が何のために描いたのだろう…

午前中に宿を出発し飛行場へ向かう。窓口にてチケットを購入。待ち合いロビーにて待つこと15分。ついにロマン溢れるナスカの地上絵をいよいよこの目で見る時がきた。自分が乗るセスナに案内される。そういえば昔テレビで楠田枝里子が(確か彼女はナスカの親善大使みたいなことしてたような気が…)ナスカの地上絵を見に行った際にセスナがボロかったためシートが外れて上空から落ちそうになったところ、パイロットが間一髪シートを掴んだために難を逃れたという話をしていたことを思い出し少し心配になる。しかし、実際見てみるとかなり綺麗なセスナではないか。早速乗り込み、一眼レフとビデオカメラを準備する。

エンジンがかかりプロペラが回り出す。それと同時に自分の心も躍り出す。滑走路を走り抜け離陸。広大な砂漠地帯が眼下に広がる。数分後パイロットのアナウンスがヘッドホン越しに聞こえてくる。

「右側にクジラが見える」(もちろん実際はスペイン語)

慌ててビデオをまわし、右側窓を覗き込む。しかし、どこになにがあるのかさっぱりわからない。同乗していた他の客が指をさす方向をよく見てみる。見える!確かにクジラがそこに!しかし肉眼ではハッキリ見えてもビデオ越しに見るとなかなか追えない…

次々と見えてくる地上絵にとにかく感動。しかもパイロットは右側と左側から見せようとと旋回してくれるのは非常にありがたい!!のだが如何せん揺れが激しく後ろのおばちゃんゲロゲロ状態。自分も後半は飛行機酔いと戦いながらのビデオ撮影。せっかく持って行った一眼レフも活躍の場全くなし…

宿に戻り余韻に浸る間もなくベットにバタンキュー

とはいえ自分が見た地上絵、YouTubeにアップしてみました。非常に見苦しい映像ではありますが暇つぶしにどうぞ。





2009年10月17日土曜日

旅再開

PiscoからNazcaまでは約3,4時間ということでお昼過ぎまでPiscoでゆっくりしたのち、皆に別れを告げ出発。まず目指すはNazca。そう、あの地上絵で有名なあのナスカ。

Panamerica Highwayを快調に飛ばしているとチャリダーらしき人を追い越す。まさかと思いバイクを止める。後ろを振り返り、近寄ってくるチャリダーに目を凝らす。そう、そのまさかのヨシさんではないか!まだ、てっきりリマにいるものだと思っていたので、こんなところで再会できるとは。ヨシさんはこれからIcaを目指して走行中とのこと。ベネズエラの国境でもヨシさんとは偶然遭遇していて、うーん、なにか縁があるのだろうか。しばしの歓談の後、またどこかで会いましょうと別れる。

ナスカの街手前20㎞くらいのところで“LINEAS DE NAZCA”の看板。そして少し走ったところにポツンと展望台らしきものが見えてきた。路肩には観光バスが数台停まっていて、少しの人だかり。ははぁ、これがヨシさんが言っていた展望台だなと思い自分も路肩にバイクを停める。登ってみようかと少し考えたが、明日には上空から見ることだし楽しみはとっておこうと展望台から地上絵を見るのは止めることにした。夕方4時頃には街に到着。直ぐさま徘徊に出掛けるが、ナスカは小さな街で約1時間ほどで歩き尽くしてしまった。まぁ、この街に来た目的はただ一つ

ナスカの地上絵を見る

といことで、早々とこの日は眠りにつくのだった。





2009年10月16日金曜日

日本食

Pisco滞在中にチャリダーのヨシさんがリマに到着したというメールをもらった。なんでも11年前にペルーを訪れた際にお世話になったツアーコンダクターのニシザワさん宅に滞在しているという。そこでヨシさんお手製の餃子&秋刀魚が食べれるというではないか!匂いに釣られてよってきた猫のごとく、再びリマを訪れることに。

ヨシさんとはエクアドルのキト以来、約3ヶ月ぶりの再会。色々と旅話も然ることながら、まずは餃子、豚の角煮、小鉢をつまみにとりあえずビール。それに付け加えNHK観賞。いやー、ペルーにいることを忘れるくらい完全に日本の空間を堪能。それだけでも満足しているところ、お次は夕食の秋刀魚。おまけにご飯とみそ汁ときたもんだ。完全に胃袋をわしづかみされました。食後は娘のハルカ、アスカちゃんとボーリング大会。とにかく二人の元気の良さに、おじさん?圧倒されっぱなし…

後日の朝食にはなんと納豆が食卓に並べられているではあーりませんか!なんでもこの納豆然りみそはペルー在住の日本人の方の手作りだそうだ。しかも冗談抜きにおいしい。ご飯にみそ汁、納豆。まさに朝食のゴールデントリオ。そしてふりかけまでついてきた。もうこれ以上いうことはありません…

基本的に旅中は現地食を食べることが多い。中華レストランがあればたまに中華を食べたりと、特に食に困るということはない。大きな街へ行けばだいたい日本食レストランはあるが、高いので行くことはない。しかし、こうやって日本食を口にするとつくづく自分が日本人だなということを実感する。

日本食、最高!!

最後に見ず知らずの旅人を招待したうえにこんなに厚い、もう濃厚なお持てなしをしてくれたニシザワさんに感謝!!!

あ、もちろんヨシさんにも感謝してますよ(笑)

2009年10月12日月曜日

Pisco

2007年8月15日、日本が終戦62年目を迎えた丁度その日にペルー沖にてマグニチュード8.0の大地震が起きた(日本ではペルー沖地震と言ったら覚えてる人はいるかも)。その際、ここPiscoでは家屋のほとんどが倒壊し、約500人の人々が死亡した。2年経過した今でもこの街では復旧活動が盛んに行われている。

僕が所属しているPisco Sin Fronterasはリマで会ったハロルドを中心に世界各国から集まった人たちで支えられているボランティア団体。日々、コンクリートで床を埋めるといった肉体労働をはじめ、現地の学校に行って子供一緒に遊んだりといった活動を行っている。

PSFとは国境なきピスコとの意味。その名の通りここでは人種も関係なければ、男も女も関係ない。みんな泥(コンクリート)と汗にまみれながら日々を過ごしている。仕事は想像以上にハード。しかし、みんなここでの生活を十二分に楽しんでいる。働く時は一生懸命働き、そして遊ぶ時も一生懸命遊ぶ。

あまりの居心地の良さに当初2週間の滞在予定が結局6週間滞在。そんなPSFを旅立つ時がきた。同じ場所に長居すると旅をしている感覚が薄れがちになる。そう僕は旅人なんだと再び気を引き締め荷物をまとめる。しかし、慣れ親しんだ場所から離れるというのはホントに辛いものである。