2010年10月24日日曜日

旅の終わり

旅に出た当初から感じていた事。

僕がこうして旅ができるのも、僕が日本という国に生まれたからに他ならない。中米、南米と旅をしていて、もし僕がこれらの国に生まれていたらこんなことはできなかったと常々感じてしまう。このことを他の日本人の旅人に問うたとこがある。するとこんな答えが返ってきた。

「僕ら日本に生まれてラッキーでしたよね」

果たしてそうなのだろうか。思えば5年前に東南アジアを旅した時も同じような事を思っていた。カンボジアで出会った少年たちとご飯を食べ、そして彼らの学校というものを見学した時だ。その事を宿のドイツ人のオーナーに話したら、彼はこう言っていた。

「君と彼ら(少年たち)とは住む世界が違う。だから同情するのはいいがお金は絶対にあげてはいけない」

仏教的に言えば、前世の人間が良い行いをしてくれたおかげで今の自分があるということなのだろうか。僕はその時、うんうんとうなづきながらもやはり心のどこかにしこりを感じていた。それが今、時間とさまざまな経験を積んだのにもかかわらず未だ解決できていない。むしろ、中・南米を旅して来て更にその考えは深まってきた。ただ以前と違うのは、それがなぜそうなるのか?その根本たる原因はなんなのか?その様々な疑問を解決するためにはどうするべきなのか?とういことを考えることができたことだろう。

日本に生まれ、そして日本の文化の中で育って来た。それと同じように他の国の人々はその国に生まれ、そしてその国の文化の中で育っている。僕が思うに彼らと付き合っていくにはその国の文化、宗教、風土、風習、歴史など様々なことを知った上で付き合う事が重要なんではないかと。僕ら日本人が思う日本的な良い事を他所の国の人間に押し付けたところで、それは絶対的な正義とは限らない。ましてやお金を与えたところでだ。結局、その辺の自分自身の中に沸き起こる問題を解決しないことには、自分自身旅を続けていても楽しめなくなってきてしまった。

とまぁ、遠回し的な言い方になってしまいましたが、そういうことで日本に帰ることにしました。この気持ちの状態で旅を続けてもなんの意味のないもと感じてしまっている自分がいるからです。旅のスタイルは様々。いろんな目的で旅をする人がいます。それは人間である以上当たり前のことで、ただ僕は先進国である日本という国に生まれ、なに不自由なく暮らしてきて、そしてそれ以外の国を見たときに、僕みたいな先進国で育った人間だからこそ考えられる、いや、何かしら考えなければ物事は変わらないという思いが強くなってきてしまったため、こういう状態になったのだと思います。

ブラジルを後にしロサンゼルスにいます。帰路の中継地点がてら、少しのんびりしてから日本に帰ろうかと思ってます。約2年近く旅をしてきて様々な出会いがあり、様々な経験をしてきました。これは自分の人生において大いなる遺産となるでしょう。そしてその経験をこれからどう生かしていくかが自分自身への課題であり、それをなんらかの形にしていくとこが重要だと考えます。

話は変わりますが、先日ノーベル化学賞を受賞した根岸さんが

「若者は海外に出よ。ある一定期間でることで日本を外から見る事が重要」

ということを言っていたそうです。寺山修司的に言えば“書を捨てよ町へ出よう”と言った感じでしょうか(笑)これは僕自身の経験からも言えることなのですが、ごもっともな意見だと思います。外から自国を見たときに、善し悪しというものがはっきりと見えてくる事は確か。そしてまた違った発想が生まれてくる事も確かだと思うからです。

なにはともあれ、約2年ぶりの日本。楽しみでもあり、不安もいっぱいというのが正直なところ。まぁ、日本の家族、友達に会えることを何よりも楽しみにしています。

2010年8月18日水曜日

戦後65年

終戦から65年目が経った。国は豊かになりすっかり平和になった日本。敗戦後、GHQ先導の元に偏った教育を虐げられ、その結果間混沌たる思想の元に育てられてきた、僕を含めた多くの日本人。その結果が今の時代に灰汁となって出てきているように思える。何が真実で何が間違っているかを知った上で物事を考える必要がある。物事を一点から眺め、判断する-その考えがすべて正しいと考える思想は非常に危険だ。


安易に入ってくる情報に惑わされ、物事の核心をとらえようとしない。その結果アイデンティティーの喪失につながってきている。偉い人がこういっているからこう、尊敬する人がこういっているからそれが正しいと思う前に、まず本当にそうなのかどうかを調べてみてはどうだろう。


歴史の真実を知り、そしてその上でこれからの将来を展望する。


それが世界平和の第一歩といえるのではないだろうか。

2010年2月13日土曜日

ブエノスアイレス2



のんびりすごしたブエノスアイレス。明日にはメンドーサに向けて出発。

さて、先日の日本の東アジア選手権に対して思ったこと。香港戦3−0、中国戦0−0。いいじゃない負けてないんだから。あんだけ日本に対して、守り守ってカウンター体制に入っていたら、中々点が取れないのは当たり前。しかも、その中国は韓国に3−0で勝ってるじゃあーりませんか。先日こっちで行われたアルゼンチンvsジャマイカなんて後半のギリッギリでなんとかアルゼンチンは勝ったんだから(後半途中まで0−1の敗戦試合)。予選のペルー戦のように。マラドーナの首がなんとか繋がったって感じの試合。いくら国内組の試合といってもランキング上位のアルゼンチンでもこんな試合すんだから。サッカーは何が起こるかわからないスポーツなんですよ。日本ももう少し温かい目で見てもいいんではないのでしょうか。なんてったって日本はまだサッカー発展途上なんだから。って、日本に対して甘〜い僕なんです。岡田監督の人選能力はジーコよりは良いと思うので、後はW杯で結果を残してくれればよいと思っております(まぁ、予選リーグは前回よりかなり厳しいけど)。

それはさておき、今日はボカ地区を歩いてました。ボカ地区といえば通称“ボンボネーラ”と言われるボカ・ジュニアーズの本拠地がある場所。一般的にはあまり治安の良い場所と言われていない場所。歩いてみると、まぁそこまで思わない(セントロに比べると確かに悪いかも)けれども、とにかく犬の糞が多いことに憤慨。この場所出身の画家キンケラ・マルティンが作り出したカミニートという場所はカラフルで、オシャレな場所。タンゴが生まれた場所でもあるのだ。今では完全に観光地化してしまっているが、ここからタンゴ等の独自の文化が生まれたことを伺うことができるところである。全くの余談だが、歩いていると目があったイタリア人だか何人だかわからない白人にいきなりかめはめ波をくらってしまった。世界どこを歩いていてもドラゴンボールは語らずとも共通の話題であることは確かなようだ。

2010年2月7日日曜日

大都会での生活

ブエノスアイレスに来て二週間が経とうとしている。大都会ブエノス。とりあえず、散文的に自分の感想。

なんといってもサッカー大国。ちょうど2月に入りシーズンが開始したこともあって非常に盛り上がっている。まだスタジアムには出向いていないが、ここブエノスに本拠地をもつチームが3チームもあり、日本でも有名なボカ・ジュニアーズ、リバープレート(かつてトヨタカップに二度出場し一度は優勝している。現在かつてポストマラドーナと言われたオルテガが復帰している)とサンロレンソ。ブエノスを本拠地としていないチームでは前年度のクラブワールドカップ準優勝国のエストゥデアンテスやアルヘンチノス・ジュニアーズなど、とにかくレベルが高いリーグである。ちなみに余談だが、こっちの日系人と知り合いになり、フットサルに参加させてもらっているが、一般人レベルもかなり高い。おじさんが普通にヒールパス使ったりと、プレーがオシャレ。その高校生、中学生の息子もリケルメみたいなプレースタイルでこれまたうまい。

宿が一緒になったリュウジはこっちの3部リーグ、サルタでプレーしているサッカー選手。3部といえどもれっきとしたプロ。もうアルゼンチンにきて3年目だという。彼曰く

「とにかく厳しい世界。毎回試合の度に監督にここにパスポート置いてけっていわれる。いつでも帰れるようにって発破かけられるんですよね」

そんな中、生き残っている彼はすごい。日本人は技術、スピードではひけをとらない。でもなぜ世界大会では勝てないのか。一言でいうと勝負根性に欠ける。勝ち負けに対する執着心の欠如。よく日本でも言われていることではあるが、これは実際に海外でサッカーをやったものにしか感じることはできないと思う。もっともっと彼のようなサッカーに対する情熱をもった選手が海外で花開くことを期待する。サルタに行ったときは是非みんな彼を応援しよう。

ワイン。とにかく種類が豊富。安くておいしいものがたくさん。さすが生産量が世界でも上位を誇る国である。スーパーに行き、だいたい10ペソ前後(300円から400円くらい)のものを選んで、夜な夜な酔いちくれております。

地下鉄。ここの地下鉄開通は日本よりも14年早い1913年。森繁久彌、アルベール・カミュ、アルバート・キャパ、ビビアン・リーや植田正治が生まれた年であり徳川慶喜、岡倉天心そして田中正造が没した年。非常に古い。南米で地下鉄に乗ったのは初めてのことである。アルゼンチンでは地下鉄のことをSUBUTEと呼ぶ。乗ってみるとどことなく懐かしい。それもそのはず、日本の丸ノ内線で使用していたものをここで再利用しているのだ。よく見て見るとガラスに「乗務員口」の文字は未だに残っている。よくもまぁ、こんなでっかい車両を運んできたもんだと感心してしまう。とはいえ日本の使い古し車両。やはりボロいし汚い。

宿でビールを飲みながら、レセプションで働いているニノに質問する。ここで働いて月どれくらい稼げるのかと。彼曰く月に約2000ペソ。日本円にして約5万円。ここブエノスではまあまあの給料だという。ましてや南米諸国で比べるといいほうらしい。彼はペルーからこっちに働きに来ていて、ペルーだと月の2、3万円もらえれば良いほうだそうだ。彼とはすごく仲が良くなり、一緒にご飯食べに行ったり、買い物に行ったりとよく行動を共にした。とある日、セビッチェ(ペルーの名物料理)を食べに行こうと誘われたので、ここブエノスでペルーレストランに行くことに。もちろんオーダーしたのはセビッチェ(それとビール)。量の違いはもちろんあるが、とにかく高い。ペルーで食べれば場所によってだが、2ドルから3ドルで食べれるものがここでは約10ドル近くする。物価レベルを考えると恐ろしく高い。だから彼は月に1回だけここに食べにくるのだという。月に一度しか食べれない故郷の味。非常に寂しいものである。

宿にはブラジル人、チリ人、フランス人、イスラエル人、アメリカ人と多種多様な人種がひしめき合っている。そしてもちろん言葉も多種多様。フランス人と話すときはこっちは英語で相手はスペイン語だったりとなんともへんな感じ。でもちゃんとコミュニケーションはとれているから面白いもんである。


さてブエノスアイレスの後はメンドーサにでも行って、ワイナリー見学とでも行きますかね。


2010年1月26日火曜日

あけましておめでとうございます

年が明けてだいぶ経ってしまいましたが、明けましておめでとうございます。

年末から年始はパラグアイのイグアス移住地にてのんびり暮らしておりました。ほんとにのーんびりです。戦後に日本からの移住してきた人たちが多くいる町で、日本の片田舎に来ているような感じでした。なんにもないところですが、そのなんにもないところがまた居心地が良く、農協に行けば日本食材が買え、味噌もあれば納豆もある。餅や豆腐だって買える。そして週末のみオープンのラーメン竹下にておばちゃんの口紅の赤さに圧倒されつつも、ラーメン&餃子のうまさに舌鼓を打ちまくる。

年末年始ということもあり多くの日本人旅人がペンション園田に集まっていて、夕方からみんなと現地の子供を交えサッカーしたりドッチボールしたり…日が暮れるまで遊ぶという、なんとも小学生みたいな生活。同郷のごんさんやラガーマンしお君らが毎朝走っているので、つられてやった早朝マラソン(二日で終わってしまいましたが…)。日本人会にて日本語教師をしている壱番さんらと大酒をくらい、後日目が覚めるとベッドの上にて生まれて初めてのお眠り嘔吐。外のベンチにいた同郷ごんさんにそのことを告げると、彼は部屋にて立ち小便をしてしまったという、一夜にして福岡県人の汚名をいっきにそそぐ結果に。

イグアス移住地最後の夜は、壱番さんの計らいで民宿小林にて長期滞在者組(ごんさん、しお君、じん&かずさん夫妻、みなみちゃん)と鍋パーティー。ここでもまた壱番さん得意の“cinco nueveコール”(スペイン語で数字の五と九の意味。つまりゴクゴク飲みなさいということ)にまたまたやられ、小林に一泊の予定が二泊することに。とはいえ、久々の湯船につかり気分爽快。

そして長らく滞在したイグアス移住地を離れ、数日前にブエノスアイレスに到着。久々の大都会に目がくらみます。

日本のまるっきり裏側にある、もう一つの日本“イグアス移住地”。そこには日本人が忘れかけている古き良き日本の姿があるように思えました。

園田さん、お母さん、園田お兄さん、はじめさん、みゆきさん、あきちゃん、小林さん夫妻、そして壱番さん。いろいろとお世話になりました。また会う日まで…会えるときまで…というかいつかきっとイグアスに戻ってきます。それまでお元気で!

2009年12月12日土曜日

あっ

という間の一年ではなかったが、とうとう日本を出て丸一年が経った。当初の予定では一年かけて世界一周なんて思っていたが、ふたを開けてみると一年経ってメキシコからまだ南米パラグアイ。チャリダーのヨシさんより遅いペース…でも実際に旅をしてみると、一年で世界を見て回るなんて到底できないと常々思う今日この頃。まぁ、観光名所だけをサクサク見て回ってというような旅行ならば一年という期間で十分回ることはできると思うが、それで本当にその国を見てきたと言えるのだろうか?もちろんその土地の見所というとこにも行くが、それとともに人に接し、そしてその街で生活することでやっと少し見えてくるような気がする。その点は当初からこの旅に掲げている目標というか、意識でもありものすごく重要なことだと考えている。


だからまだパラグアイ(笑)先はとてつもなく長いです。


でもこのたった?一年を振り返って、本当に多くの人たちと出会い、そして多くの経験をしてきた。旅に出て本当に良かったと思っている。


”旅は人生の縮図である”とも言われたりするが、全くその通りだと、実際に旅をしてみると改めて痛感する。今では旅=生活と化してしまっているけど…


さて、今はパラグアイのアスンシンオン。高校時代の友人ジンから知り合いを紹介してもらい、戦後間もなくこっちに移住してきた日本人の家族、ワタナベさん宅にお世話になっている。ここのご夫婦と話をしていると、今の日本で失われつつある昔の古き良き日本の気持ちというものを、日本に住んでいる人たちよりも持っているように感じる。ワタナベさん夫婦だけでなく、ボリビア、パラグアイに戦後移住してきた多くの日本人は皆同じかもしれない。なにもなかったこの南米の地を開拓し、そしてみごとこの地に根を下ろした。そしてその精神は子供たちに受け継がれている。だからこそワタナベさんと話していてそういう風に感じるのだろう。


そう、話は変わるが、今日一年ぶりに梅干し食べました(笑)

2009年12月8日火曜日

生きてます

久々の日記更新。

La Pazではパソコンの復旧活動に勤しんでおりました。そして今はSanta Cruzにおります。ここでは高校時代の友人、ジンと再会を果たし、そして英雄ゲバラが果てた地Higeraを訪れ、そして戦後多くの沖縄の人々が移住した地Colonia Okinawaにて、海のないもう一つの“オキナワ”を見てきました。

明日にはParaguay, Asuncion へ移動します。

まぁ、とりあえず生きているということだけ報告しときます。